May 02, 2013

[Tour] 夕子の歩いた道を辿る(15) ’13. 5. 2

エピローグ

津母からの帰路、宮津行きのバスを、駅の手前で降りる。港がすぐそばにある。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 5)

現在、宮津港に発着する定期船は、一日一便の天橋立巡り観光船だけのようだ。港の近くに図書館があったので、帰りの列車までの時間つぶしも兼ねて立ち寄る。郷土資料のコーナーで「伊根町誌」という本を見つけた。泊や津母の、昔の様子が書かれていた。

町誌によれば、五番町夕霧楼の話の通り、当時、宮津と、丹後の海沿いの村の間は、海運が主な交通手段だった。しかし意外なことに、夕子が五番町へ発つ2年前の1949年に、泊から宮津へ行く航路は廃止されていた。では、泊や津母の住民は、その頃どうやって宮津へ出ていたかというと、伊根町の中心部まで約5km歩いて、そこの港から宮津行きの船に乗っていたらしい。泊にバスが通じたのは1956年ということも書かれている。現実は、小説より不便だったことになる。

そのような細かい点までは、作品を書くにあたって厳密に考証されたわけではなかったようだ。

もっとも五番町夕霧楼はドキュメンタリーではなく、世に出たのも、話の設定から10年以上後の1963年のことだから、些細なことまでこだわる必要もなかったのだろう。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 5)

以上で、延々書き連ねてきた夕子の足跡を辿る旅を終わりにしたい。実際のところ、実地に足を運んだ日数は数日間にすぎなかったわけだけれど、これだけ多く書いたのは、ひとえに私の思い入れによるところである。フィクションにしては地名や日時が具体的に書かれた箇所が多い作品であったがゆえに、かえって、いろいろと思い浮かんでしまった謎や疑問点は、今回、現地に赴いて解決できたことが多かった。

また、ブログに記事を起こしてみてあらためて感じたことだけれど、イメージに合わせて写真を撮ることは難しかった。正直いって、今回、このシリーズで載せた写真は、自分では結構不満があるものが少なくない。それは、普段、好き放題適当に撮影しているのに比べて、テーマに沿って写真を撮ることが、いかにデリケートかということである。

一方で、旅として振り返ると、ガツガツした旅行になってしまった気がした。今度は、時間にとらわれずに五番町や丹後を訪れる機会を持ちたい。そのときには、今回知ったことが糧となって、また違った印象を得ることができると思う。


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※このシリーズは延々16回にわたって書いてしまいましたが最初から読まれたい方はこちらからどうぞ。

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[Tour] 夕子の歩いた道を辿る(14) ’13. 5. 2

津母(京都府伊根町)

泊から、北のほうへ向う坂道を登る。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 5)

「…三つ股へ一里半の道は、樽泊の舟着場へゆく二た股道から、北へ岐(わか)れながら登り坂となる…一年前に、夕子が三左衛門につれられて、鼠いろにかすんだ経ヶ岬をうしろに遠ざけながら、京の五番町夕霧楼へゆくといって、二人の妹といっしょに歩いた道である。」
(「五番町夕霧楼」〔新潮文庫〕p.204)

作品の最後に、夕子の亡骸が、父親に背負われて樽泊の墓地から故郷の三つ股へ帰っていったときの道と、特徴がほぼ一致する。

だが、原作を読む限りでは、三つ股が現実にどこにあるか見当をつけるのは難しい。

「宮津から舟にのって、ずうーっと北の方へいくとつきますねん。半島の端の海べの村で、三つ股いいますねん。」
「あたしは、三つ股の村の三左衛門という木樵(きこり)のお父さんにうまれましたンや。その三つ股の村と樽泊の村は、一里ほどしかはなれてしまへんのやけど…」
(「五番町夕霧楼」〔新潮文庫〕p.114, 161)

夕子は、夕霧楼で働いていた同僚の敬子に三つ股の場所をこのように説明していた。

地図上で、泊から半径4~6kmの範囲で「三つ股」またはそれに似た地名を見つけることはできなかった。一方、泊から海沿いの道路を北へなぞると、そのあたりには本庄、蒲入という集落がある。

では本庄や蒲入が三つ股かといえば、それにも不自然さを感じる。なぜなら、これらの村落と泊の間には集落が他にもいくつもある。それなのに、幼い夕子が、日常、わざわざこれらの村を越えて6km先の樽泊まで行って正順と遊ぶ必要があったのか、という点からだ。

この謎が解けたのは、水上が、のちに書いた紀行文「丹波・丹後」(河出書房新社)の一節を読んだ時だった。

「津母の村の坂道を下りて海へ出た。村の家は段々になっていて、雨で洗われた道は石ころが出ていて歩きにくかった。…私はこの村に、一人の少女を置いてみたかった。このような淋しい土地にうまれた貧しい少女を、物語の主人公として追ってみたかった。与謝の暗さを一身にひきうけて、生きようともがきながら、結局、暗い運命に蝕まれて死んでゆく女のことを書いてみたいと思った。津母の村は、そのような女を私に夢みさせた。…与謝を去って、東京へ帰る山陰線の車中にあった私は、津母でひろった少女の名を『夕子』にしようと思っていた。汽車の中で名ができた。」
(「丹波・丹後」〔河出書房〕p.96-97)

この文章から、津母が、夕子の生まれた三つ股のモデルと考えられる。しかし五番町夕霧楼の中では、前回ふれたように、夕子が船に乗るくだりで「半島の突端にある経ヶ岬から、蒲入、本庄、野室、津母を経て樽泊へ立ち寄った便船…」と既に津母の存在が挙げられており、三つ股と津母は別ものと捉えてしまう。ゆえに、原作にこだわると、三つ股のモデルは見つけることができないのだ。

坂道を登りきると、眼下に津母の集落が見える。泊のT字路から歩いて15分くらい。家は道路と海岸の間のスペースに寄り添うように建っている。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 5)

2010年の国勢調査によれば、津母の人口は65人・世帯数は31戸とされている。家屋を建てられる場所がもともと限られているようにも見えるので、現在の家の集まり具合から見ると、意外と人口は昔から大きく変わっていないような気もする。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 5)

水上は、津母を訪れたとき、とてつもなく淋しく暗い印象を持ったようだ。しかしこの日は快晴のためか、私はそう感じることはなかった。

だが、この村で水上が強い衝撃を受けた野仏を見つけたときは、思わず足が止まった。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 5)

「…私は、車をとめた。道ばたに奇妙な野仏の一群を見たからである。よく見ると、それは地蔵のようでもあったが、そうでないようでもあった。なぜなら、地蔵菩薩は、だいたい石造で立っているのが普通だった。しかし、ここで見たものは、四角い額ぶちにはまった仏像である。御影石の平面に、一体もしくは二体の仏を刻んだものが、竹置場の隅に、まるで、無造作に捨てられたように、かためられてあった。」
(「丹波・丹後」〔河出書房〕p.90-91)

雨上がりの午後、おそらく今日とは全く比べ物にならないくらいくすんだ色彩の海沿いの村で地蔵像の群れに会ったとき、水上の心の中に、儚い少女の魂が乗り移ったのだろうか。

五番町夕霧楼の作品中には、意外にも、三つ股の集落や夕子の生家に関する描写はほとんどない。水上は、津母で受けたインスピレーションをそのまま19歳の夕子に投影し、作品に昇華させたのである。

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[Tour] 夕子の歩いた道を辿る(13) ’13. 5. 2

泊(京都府伊根町)

「京都の古い遊廓として栄えた西陣の五番町で、かなり名のとおった夕霧楼の主人である酒前伊作が、疎開先の与謝半島の突端である樽泊で急逝したのは、昭和二十六年の初秋である。」
(「五番町夕霧楼」〔新潮文庫〕p.5)

五番町夕霧楼の、冒頭のくだりだ。この物語の最初の舞台は、与謝半島の樽泊である。

与謝半島が丹後半島の別名であることは、前回、書いたとおりだ。しかし丹後半島には、「樽泊」という地名は存在しない。そこで、どの辺りにあるのか推理してみる。

「与謝半島の突端」や「遠くに経ヶ岬の燈台のかすんでみえる海が、うす墨を刷いたように灰いろにひらけてみえる…」(「五番町夕霧楼」〔新潮文庫〕p.6)という一節から、樽泊は、丹後半島の北端にある経ヶ岬の近くにあるように思われる。

けれども地図を見ても、経ヶ岬の近くには、これといった集落は存在しない。樽泊は、まったく架空の土地のようにも思われた。だが、あらためて地図と作品を丹念に見比べていったところ、この集落の具体的な位置関係を表した一文が目に留まった。

「樽泊はずいぶん辺鄙なところである。陸路をとると宮津へ出るまでには、一台きりしかない木炭バスで四時間もかかった。昔から成相寺の下に舟着場が設けてあって、海路をとって宮津へ出る便が都合がいい。…半島の突端にある経ヶ岬から、蒲入、本庄、野室、津母を経て樽泊へ立ちよった便船だった。」
(「五番町夕霧楼」〔新潮文庫〕p.18-19)

夕子が上洛するときに乗った船の経路を説明したものだ。

地図を見て初めてわかったことだけれど、蒲入、本庄、野室、津母は、いずれも丹後半島の東岸に実在する地名だった。そして津母の南方には「泊」という集落が続いていた。

この「泊」こそ、樽泊のモデルだろう。物語の舞台が、リアルな姿となって浮かび上がってきた。

実際は伊根町の一集落であるここへ、どうやって行くことができるか調べた。夕子は、上洛するときには船に乗り、最期、京都市内の病院を抜け出して戻る時には、宮津からバスを利用していた。とりあえず現在は、航路はない。路線バスは、半島の中ほどにある伊根町の中心部から泊を経由して津母まで行く便が、平日のみ一日三本あった。

しかしバスがあるとは言え、少なすぎやしないか。

丹後半島には、半島の付け根に当たる宮津や天橋立から経ヶ岬へ向うバスが走っている。これは観光路線で本数もそれなりにあるはずだし、基本的に海岸線の道を走っているようだから、やはり海の近くにある泊を通らないのはおかしくないだろうか…と思いながら、今度は地図とバス路線図を見比べていく。すると、道路はたしかにほぼ海沿いにあるけれど、経ヶ岬へ行くバスは、泊の辺りでは、やや山寄りのルートをとっているようだった。だが、泊から500mほど山側に入った「六万部」というところには、宮津と経ヶ岬の間を走るバスの一部が1~2時間毎に走っているようだ。先述した伊根から津母へ行くバスは、さらに海側の道を走っているようだった。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 5)

というわけで、夕子が樽泊へ戻った時と同じように、宮津駅で朝一番のバスに乗る。彼女は伊根行きのバスに乗り、伊根町で経ヶ岬行きのバスに乗り換えて樽泊へ行ったけれど、私が乗ったバスは、経ヶ岬まで直行する。車は天橋立や伊根(伊根も、現在は町中心部にある舟屋が観光地として有名らしい)を通り、約1時間で六万部へ着いた。

バスを降り、海のほうへ歩く。10分ほどで泊の集落に入る。海に突き当たって左右に割れるT字路の手前に神社があり、その並びにお寺があった。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 5)

正確には、お寺の跡だ。朝妻山松岩寺という名だったこのお寺は1961年に閉山し、現在は公民館の看板が掲げられている。

「…一だん高い山のはなに、灰いろのそり棟の屋根のみえる浄昌寺の本堂が、常緑樹の梢(こずえ)の合いまに、桃いろの百日紅(さるすべり)の花のかたまりをのぞかせてかすんでみえる。」
(「五番町夕霧楼」〔新潮文庫〕p.18)

作品に登場する樽泊の浄昌寺は見晴らしのよいところにあったけれど、ここは、海には近いものの、高台にあるわけではなく展望もきかない。

しかし泊には、ここ以外に寺はない。つまり、正順がいた浄昌寺は、ここがモデルということになる。もっとも、もうひとつのモデルである、林養賢が生まれ育った西徳寺は、ここから直線で20km離れた舞鶴市の郊外にある。水上はこの作品で、泊という村落を借りて、見晴らしのよい土地に寺を創り、そこに養賢を模した正順を託したにすぎない。だから、この寺が浄昌寺と似ていなくても、それは、大した問題ではないのかもしれない。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 5)

「伊作の遠縁の者たちにおくられて、樽泊の村を出たかつ枝は、久子に荷物をもたせて、舟着場のある浜まで下りていったが、片桐父娘たちは、早めに桟橋に出て待つことにしておいたので、村を出る時は、人目につかなかった。せめてもの思いやりだった。」
(「五番町夕霧楼」〔新潮文庫〕p.18)

桟橋は、集落の中心に近いところにある。夕子は、ここから船に乗ったのだろうか。

桟橋の近くは、砂浜になっていた。

夕子が乗った船を、彼女の父親と妹は、浜の上から手を振って見送っていたという。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 5)

その砂浜を見下ろすことのできる高台の土地に、共同墓地があった。山の斜面をわずかに切り開いて造られたと思われる、小さな墓地だった。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 5)

フィクションだと頭の中ではわかっていても、作品の最後のシーンのイメージが強烈にかぶったことは言うまでもない。

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May 01, 2013

[Tour] 夕子の歩いた道を辿る(12) ’13. 5. 1

若狭本郷(福井県おおい町)

丹後地方の地理にあまり詳しくない私は、夕子の故郷は、てっきり養賢の生まれ育った寺のある集落がモデルだと思っていた。

しかしあらためて調べると、そうではなかった。

養賢の出身地は、京都府北部・舞鶴市の日本海に面した集落の成生(なりゅう)。これに対して、夕子が生まれたのは、「与謝半島の三つ股」だ。

「与謝半島」という名前を聞いたことがなかったので、架空の地名かと思っていた。だが、丹後半島のことを、別名で与謝半島と呼ぶこともあるようだった。丹後半島には、天橋立や宮津、経ヶ岬など著名な観光地が多い。観光地イメージを嫌って、作品では、あえて、メジャーとはいえない別名を使ったのかもしれない。

そして、なぜ舞台を成生ではなくて、その近所の丹後半島にしたかといえば、水上が、やはりこの近くにある福井県大飯郡おおい町で生まれたため、似た場所を物語の舞台として使い分けられるほど、この辺りに関する知識が豊富だったことが理由の一つとしてあったのではないかと考える。水上作品には、ほかにも、この地方を題材としたものが多数ある。


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丹後半島へ行く前に、水上の故郷の、おおい町に立ち寄った。福井県の西端にある、おおい町の中心にあたる旧・本郷村が、彼の出身地だ。最寄り駅はJR小浜線の若狭本郷である。

電車を降りて改札を抜けてから、駅舎を振り返って見て、その外観にギョッとする。


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Fukui, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 5)

1990年に大阪で開催された「国際花と緑の博覧会」で、会場内を走っていた遊覧鉄道の「風車の駅」という駅の駅舎を移設してきたものだという。

駅前には商店は少ないけれど、道路は整備されている。少し歩くと、ひと気のない立派なグラウンドがある。ベンチにもたれたマスコットキャラクター「うみりん」(中に人が入っているのかと思ってまたびっくりしたのだけれど、実際には空気しか入っていなかった)から、力のない目線を送られる。


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Fukui, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 5)

この町の海岸部には、関西電力の大飯発電所がある。現在、日本で唯一稼動している原子力発電所だ。こぎれいなインフラは、交付金の賜物だろう。もし水上がまだ生きていたら、故郷の今の姿に何を思い、著していただろうか。


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Fukui, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 5)

水上ゆかりの施設として、町の郊外に「若州一滴文庫」がある。彼が主催していた若州人形座の人形、宗教・文学・美術関係の資料、蔵書などがある。展示物は数十分あれば見て回れるけれど、水上の著作などが数多く所蔵された図書室に入り込んでしまうと、時間がいくらあっても足りなくなる。


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Fukui, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 5)

若州一滴文庫の名前は、この町出身の、儀山善来禅師の「一滴の水を惜しめ、草や木の命の声を聞け」という教えに由来する。

夕子も、正順も、養賢も、この地方の自然の中で生まれ育った。

そして今、ここには、原発がある。

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April 28, 2013

[Tour] 夕子の歩いた道を辿る(11) ’13. 4.28

保津峡(京都府亀岡市)

五番町夕霧楼の終盤では、登場人物が次々に亡くなっていく。鳳閣寺が火災にあったのを知って故郷から見舞いのため上洛した正順の母親・シゲが、息子が犯人だったことを聞いて、帰りの山陰本線の列車から身を投げる。三週間後には、正順が留置場で自殺。それを知った夕子も、故郷・樽泊の墓地で命を絶つ。

シゲの死は、金閣寺放火事件の犯人・養賢の母である志満子が死んだ過程と、ほぼ軌を一にする。

「林志満子は、七月二日の午すぎ、大江山麓尾藤部落の実家を訪れた福知山署員から、金閣焼亡のことと、息子養賢の行方不明を告げられて動顚(どうてん)した。西陣署の連絡をうけた福知山署が、尾藤へ養賢が帰っていないかを探りにきたのである。もちろん養賢はいなかった。志満子は弟の勝之助を伴い、福知山署員と京都へ急行した。京都に着いてから、志満子は養賢の逮捕を知った」
(「金閣炎上」〔新潮文庫〕p.247-248)

彼女は警察で養賢との面会を試みた。だが、養賢から拒否された。失望した彼女は「子の罪を身をもって償いたい」と漏らし、帰りの列車から飛び降りた。

「新聞によると、林志満子は三日の午後四時四十五分京都発城崎行八三一号列車に花園駅から乗った。…汽車が保津峡駅をすぎ、馬堀駅にさしかかる手前に鉄橋がある。下は深い渓だ。志満子はとつぜん下駄をぬいで、デッキの端へ走り、勝之助が眼を放したすきに身を投げたのだ。デッキに扉はなかった」
(「金閣炎上」〔新潮文庫〕p.17)

当時の山陰本線は窓も扉も開閉自在の客車列車だったため、走行中に飛び降りることは容易だった。

現在、この区間の線路は、そのときと別のルートに付け替えられている。けれども、古い線路は保津峡の渓谷沿いの、景色がよいところを走っていたため、廃線にはならずに観光用のトロッコ列車が走るようになった。

そのトロッコに乗ってみた。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

鉄橋は、列車の終点(現在は「トロッコ亀岡駅」という名前になっている)に着く直前にあった。ここなら列車も速度を落とし始めているし、狙いをつけて川に飛び込むのも比較的簡単だろう…でも川は深くないな…などと、観光客で賑わう車内で、自殺した母親の気持ちをいろいろ思い量る。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

折り返しの列車を撮ったあと、後ろを振り返ると、なぜか大量のこいのぼりが夕陽にはためいていた。そういえば、もうすぐ子供の日だ。しかし、息子に思いを馳せて身を投げた彼女の気持ちを思うと、鯉のぼりとは対照的に気は沈んだのだった。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

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[Tour] 夕子の歩いた道を辿る(10) ’13. 4.28

等持院(京都府京都市)

金閣寺から南へ歩く。立命館大学の構内を通り過ぎて、さらに少し下ると、足利尊氏の墓所があることで知られる等持院の大きな看板が目に入る。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

ここは、少年時代の水上が相国寺を脱走したあと、旧制花園中学校を卒業するあたりまで、約3年半の間修行していた寺でもある。水上は、中学を卒業する1936年(昭和11年)の1月に五番町へ行き、学校よりひと足先に童貞を卒業した。つまり、そのときにはここに住んでいたわけで、等持院は、五番町夕霧楼の中には出てこないけれど、まったく縁がないというわけでもない。もっとも、卒業した年の5月には市内下京区八条坊城の親戚の家に転居したので、ここから五番町へ足を運んだのは、ごく短い間だった。なお水上は、その翌年に立命館大学に入学したけれど、当時、立命館大学は上京区寺町広小路にあり、この近くに校舎が作られたのは第二次世界大戦後のことだ。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

等持院をあとに西へ向う。10分ほど歩いたところに「笑福亭」という小さなうどん屋がある。水上が等持院にいた頃、よく食べていたらしい。また、昔、やはりこの近所に住んでいた井上靖氏もよく来ていたそうで、どちらかというと井上氏お気に入りの店として知られている。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

彼らが好きだったというきつねうどんを、私も食べてみた。

どこがどう旨いというより、ひと言でいえば、近所にあったら通いたくなるような店であり、味だった。

たぶん私が入るのにつられたのだろう、すぐ後に、外国人観光客のグループが店に入ってきた。彼らが、見てもわからぬ日本語のメニューを手に、適当に「Chicken」と言って注文したのに対して、店のおばあさんは少し思案したあと、鴨南蛮を作っていた。さすがは観光地・京都のお店だ。それにしても、メシ屋で適当に「Chicken」と宣言することは、異国で食事をするときには結構使えそうだ(…)。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

店の近くには、嵐山方面へ行く「嵐電(らんでん)」という鉄道が通じている。八ツ橋「夕子」の広告が車体に描かれた電車を見た。

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[Tour] 夕子の歩いた道を辿る(9) ’13. 4.28

金閣寺(京都府京都市)

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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

作品では「鳳閣寺」という名で登場する金閣寺。金閣の頂には金銅製の鳳凰が付いている。金閣が火災にあったときには、たまたま取り外されており難を逃れた。1999年には、京都市指定文化財に指定された。

「鳳閣はこの池の北畔に建っている…頂上の中央部に、金箔でぬりつぶされた鳳が、羽をひろげて池の水面をにらみとまった恰好にみえる。鳳がいることによって鳳閣といわれたのである」
(「五番町夕霧楼」〔新潮文庫〕p.172-173)

水上は、ここから鳳閣寺の名前をつけた。なお現在の金閣の屋根上に付いているのは、やはり別のもので、オリジナルは屋内に保管されている。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

1398年(応永5年)に完成し、応仁の乱で周囲の多くの建物が焼かれたときも残った金閣は、1950年7月2日未明、林養賢の放火で焼失した。

金閣は1952年から3年かけて、古文書などを参考に修復された。焼失前の金閣は、金箔が剥げた簡素な姿だったといわれていた。しかし建て替えられた金閣は、金ピカだ。だが、それは、よりオリジナルに近い姿であるといわれていた。

しかし、復元後の金閣も10年経ったころからやはり金箔が剥がれはじめ、下地の黒漆まで褪せてきたため、1986~87年にかけて「昭和大修復」と呼ばれた再修復が行なわれ、現在に至る。

おそらくそのとき、そう簡単には劣化しない修復が施されたものと思われ、その後四半世紀以上経った今、劣化や改修等の話を聞くことはなくなった。けれども、焼失前の造りに忠実に復元したのであれば、金箔が剥がれやすかったり、下地が色褪せたりすることも、仕様のひとつではなかったのだろうか。そうであればそのまま放っておくほうが、かえって趣が出てよかったのではなかろうかと私なんぞは思ってしまうのだけれど、おそらくそれは、関係者の美意識とは違っていたのだろう。もっとも金箔が剥がれて吹っ飛んでいくのももったいないことではあるし、そしてやっぱり現実は、金ピカ状態が維持されたほうが望ましい姿だとマジョリティの方々は感じるのであろう。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

養賢は金閣に火を放ったあと、寺の裏手に当るところに位置する左大文字山に登った。

「…自分も三階へあがつて金閣と一しよに死のうという考えがおき、二階へ上ろうとしたが鍵があかない。…恐ろしくなつて急に金閣をとび出し、池のへりにすくんで、金閣の燃えるのを見ていたが、火勢が大きくなると、池の岸ではよく見えないので、山へのぼつて見ようと考え、不動堂のわきから大文字山へ走りあがつた」
(「金閣炎上」〔新潮文庫〕p.233)

養賢は、この日の夕方、山の中腹で催眠薬のカルモチンを飲んで苦しんでいたところを逮捕される。五番町夕霧楼の櫟田正順も、この間の行動は、おおよそ養賢に倣っている。

地図上では、金閣寺から左大文字山へ、ほぼ一直線の山道が通じている。しかしこの道は、現在、通行止めとされている。寺から見ると、山の西側から回り込む形でもうひとつ登山道があり、こちらは通ることができるので、途中まで登ってみた。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

振り返ると、京都市街が眼下に見える。死ぬつもりだった彼は、そのとき、金閣寺の向うに拡がる市街の眺めまで気が回っていたのだろうか。もし気付いていたら、きっと、もっと別のことを想うところがあっただろう。そんな、豊かな景色だ。

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[Tour] 夕子の歩いた道を辿る(8) ’13. 4.28

東山武田病院(旧・京都専売病院)跡(京都府京都市)

夕子が結核を患って入院した病院は、市内東部の東山五条にある「大和病院」だった。かつ枝が入院する夕子を連れて病室に入った時、彼女にこう語りかけている。

「夕ちゃん、ええ部屋やなァ…うちもこんなとこで、一日ごろんと寝てみたいわ。ほら、みなはれ、東山から、大文字から、比叡山から、北山までまる見えやおへんか」
(「五番町夕霧楼」〔新潮文庫〕p.156-157)

病室は三階だった。夕子は、のちにこの部屋で鳳閣寺(金閣寺)の燃える様子を遠目に見ることになる。

東山五条から金閣寺までは、結構距離がある。直線で、およそ7km。三階程度の高さの部屋で、それほど眺望がきくのだろうか。読んだ時に、まず引っかかった点だった。

五番町から東山五条へ向う。市バスを乗り継いで、30分以上かかった。ここでさらに気になったのは、なんでわざわざ東山五条の病院を選んだかということだ。同じ市内でも、もっと近くに、いくらでも病院はあるのではないだろうか。

東山五条から五条通を少し入ったところに歩道橋があった。民家であれば二~三階くらいの高さはありそうだ。階段を上って、金閣寺の方角を見る。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

現在、京都市内の建築物には高さ規制がある。それでも、三階くらいの高さでは、遠くを見渡すことは難しいことがわかる。当時は今ほど高い建物がなかったであろうことを差し引いて考えても、山はともかくとして金閣寺は見えただろうかというと、なんとも微妙な感じがする。

それでは、夕子はなぜ、あえてこの街で入院したのかあらためて考えてみる。ここと金閣寺を直線で結ぶと、おおよそ、その中間に五番町がある。なんとなく地理的に収まりがよい。だから、この東山五条にしたのではないかという気がした。もっとも、百歩譲って金閣寺は見えたとしても、五番町の夕霧楼を見極めることは不可能だったと思う。

この病院にも、モデルはあったのだろうか。

「大和病院は、東山通りの五条を下った右側にある。昔の、豊国廟といわれた、太閤秀吉を祀る神社のつづきになっていた」
(「五番町夕霧楼」〔新潮文庫〕p.156)

豊臣秀吉を祀った豊国神社という神社は、京都市東山区に実在する。そしてこの神社から東へ進み、東山通を渡ったところに大きい病院があることが、地図で確認できた。東山通を五条から下っていくと左手に当たるのが、ちょっと違っているけれど。

この病院は、東山武田病院という。その前は京都専売病院という名前だった。この名を聞いてピンとくる人もいるかもしれない。昭和の時代にたばこや塩を扱っていた日本専売公社があった頃にできた病院である。京都専売病院は2005年に事業が承継されて東山武田病院になった。しかしながら、地図に名前は残っているものの、実際には、2011年に東山武田病院は閉院してしまっていた。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

現在、そこではホテルの建設が行なわれている。「病院の跡地にホテルを建てる」と聞くと霊感の強い人などは気にするかもしれないけれど、構わず、工事は進んでいるようだった。

この病院が、夕子が入院した大和病院のモデルと考えてほぼ間違いないだろう。

しかし、そう思って夕子が入院していた頃の病院の様子を調べようとして、またもや唸ってしまった。

京都専売病院がこの場所で開業したのは1956年とされている。それまで、ここは隣接する妙法寺というお寺さんの土地だった。しかし、夕子が入院したのは1952年。まだ病院はできていなかったのだ。東山武田病院のホームページによれば「1948年に旧京都専売病院は日本たばこ産業株式会社の社員とそのご家族の福利厚生施設として開設された」とあるので、もしかすると近所から移転してきたのかもしれないけれど、移転前にあった場所までは特定できなかった。夕子の病院探しは、また振り出しに戻るのか。

再度、この近くで病院があったかどうか探してみた。東山武田病院跡地から見て東山通をはさんだ反対側にある古びた灰色の建物が、いかにも病院くさい感じがして気になったのだけれど、後で調べたところ、これは病院ではなくて、東山区役所の旧庁舎なのだそうだ(↓)。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

結局、他に病院を見つけることはできなかった。もっとも、五番町夕霧楼が発表されたのは1962年のことである。水上が執筆したときには、京都専売病院はおそらくこの場所で既に開業していたことだろう。病院の名前も架空だし、その辺の時代考証は適当にやっていたのではなかったのかと、作者には失礼な気はするけれど、ここはひとつ、そう強引に結論づけたい。

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[Tour] 夕子の歩いた道を辿る(7) ’13. 4.28

五番町(3)(京都府京都市)

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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

下衆の勘繰りと思われる方もいるだろうが、当時の五番町での遊び代について具体的に考えてみる。

「片桐夕子は、意外な値段である二万円で、当時では、若いサラリーマンの五月分の給料に相当する金額で、軀を甚造に売ることになった」
(「五番町夕霧楼」〔新潮文庫〕p.51)

夕子が夕霧楼で初めて客をとった、水揚げのときの金額である。給料との比較は、とりあえずわかりやすい。検証したところ、1951年4月の国家公務員行政職の六級職(大学卒程度)の初任給は5,500円だった。厳密に判断すれば二万円は給料4ヶ月分くらいと捉えるのが妥当か。ただし4月に改定される前は4,223円であり、一気に30%以上増えていた。インフレの時期だったのだ。現在の若手サラリーマンの給料を20万円とすると、5ヶ月分は100万円になる。実際、当時の帯問屋はそれほど羽振りが良い商売だったのだろうか。

一方、夕霧楼の通常価格はいくらだったのかという点について書かれた箇所はほとんどない。

「お新が、あの妓は新入りで水揚げがすんだばかりだから、時間の花でも、三百円はもらわねばならないというと…」
(「五番町夕霧楼」〔新潮文庫〕p.78)

正順が初めて夕霧楼に来たときに、ひき手婆のお新が正順に話した場面だ。しかしこれは、通常価格というより、正順の風貌を見て、彼女が多少ふっかけた値段ととれるだろう。ちなみにこれを若手サラリーマン給料理論で換算すると、1.5万円になる。

金閣炎上では、養賢が実際に入った泉楼で使った金額が書かれている。

「…遊興費は三百七十五円だった。養賢は上着のポケットから紙幣を四枚だして、それを机の上におき、『つ、つ、釣り銭はいらん』といって廊下へ出た」
(「金閣炎上」〔新潮文庫〕p.222)

400円を同様に換算すると、2万円。夕霧楼よりやや高めの値段だ。だが、大学生でも気張ればたまには行くことができる程度であることも何となく理解できる。

しかし、養賢が三日連続で五番町に行った時の原資は、その直前に父の遺品を含むコートなどの衣類を売った金であるとされている。五番町夕霧楼では、正順が払うべき花代を夕子がときどき負担していたことに対し、身の回りの品を売って金を工面した養賢の心を思うと、その目的が遊廓のためとは断定できない(個人的には、身辺整理の要素が強かったように思う)ものの、また気が重くなる。

作者の水上の意にはそぐわないのかもしれないけれども、私には、フィクションの中の正順が見た五番町と、実在した養賢の目に入ったこの町の光景は、全く違って映っていたように感じられる。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

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[Tour] 夕子の歩いた道を辿る(6) ’13. 4.28

五番町(2)(京都府京都市)

再び五番町へ足を運ぶ。

夕霧楼はこの町のどこにあったのか、具体的に考えてみたい。

かつ枝が夕子の貯金通帳を郵便局で作るくだりがある。そこで彼女は夕霧楼の住所を書いている。

「かつ枝は、局員からさし出された紙切れに、右上りの下手くそな楷書で、京都市上京区中立売通り千本西入ル五番町一二三番地夕霧楼、片桐夕子と時間をかけて書き、新しい楕円形のハンコに、はあーっと息をふきかけてさしだした」
(「五番町夕霧楼」〔新潮文庫〕p.70)

地図サイトで123番地を探してみた。けれども見つけることはできなかった。実在しない番地なのかもしれない。

他にも、いくつか夕霧楼の場所のヒントが書かれている箇所はある。

「夕霧楼は、千本通りからわずかに入った角の地に建っていたが、その建物はずいぶん古びていた」
「そのよく朝、まだ妓が起きない時刻に、かつ枝は急に思いついたように、茶羽織をひっかけて表へ出ていった。かつ枝は、同じような妓楼の建物が両側にならんでいる、人影まばらな通りを左に折れて、電車通りへ出た。千本通りだった」
(「五番町夕霧楼」〔新潮文庫〕p.23, 69)

五番町は、南北に200m、東西は100mの大きさしかない。実は小さな町である。遊廓は五番町の周りまで広がっていて、その中心にこの町があったのだ。あらためて地図で調べると、五番町の中で「左に曲がって千本通に出る道」はひとつだけ。現在、千本日活のある場所から東へのびる上長者町通だ。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

画像の前に広がる道が上長者町通。その先に見える信号機が千本通との交差点だ。

千本日活の向かい側には、今はマンションが建っている。そこから千本通までは約60m。番地以外は、このマンションが夕霧楼の場所にほぼ合致しているのではないかと思う。先述した通り、千本日活は五番町遊廓の組合事務所があった場所だ。夕霧楼は、五番町の真ん中にあると想定していたのだろう。

ついでに、かつ枝が通帳を作った千本通の郵便局の場所も検証してみる。

「静かな町を早足で歩くと、本屋や、床屋や、喫茶店などがならんでいる向い側の軒下へよって、間口のせまいハンコ屋を思い出してさがしはじめた。やがてその店がみつかると、そこで『片桐』とした三文判を買った。そうしてかつ枝は、そのハンコ屋から四軒ほど南へ下った地点で、黒い制服を着た郵便局の若い男が表に打水をすまして、今しがたドアをあけたばかりの、スタンプインクの匂いのする、局の中へ入っていったのだった」
(「五番町夕霧楼」〔新潮文庫〕p.70)

ここもやけに描写が細かい。けれども今、この辺りには郵便局はない。私が住んでいた頃の記憶にもない。仮に実在していたとしても、だいぶ前に移転もしくは廃止されてしまったものと思われる。

しかしかつ枝が三文判を買ったハンコ屋の場所あたりに、文具店があった。彼女は、郵便局が開いたばかりの時間にハンコを買っている。登校する生徒のために朝から店を開ける地域密着型の文房具屋は、昔は結構あった。ここもそうなのだろうか。朝9時少し前、かつ枝が出かけたのと多分ほぼ同じ時間に五番町から千本通に出て丸太町の方向へ歩く。すると、件の文具店は、既に開店していた。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

この店では切手や印紙も扱っている。もしかすると、近くに郵便局があった名残かもしれない。必ずしも文具店が三文判を扱っているわけではないけれど、ハンコを買った店は、ここでよいという気がする。なお、ここから四軒ほど南へ下ったところには、真新しい担担麺の専門店があった。

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