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May 2013の5件の記事

May 06, 2013

[Tour] 兵庫県三田市 ’13. 5. 6

兵庫県三田市。東京の人は、つい「みた」と読んでしまう。大阪の人は当然のごとく「さんだ」と読む。

大阪から電車で1時間のところにある、人口11万人のこの町にはプロ野球のチームがある。

関西独立リーグの「三田ブルーサンダーズ」だ。

試合が行なわれる城山球場は、案内には、「三田駅からバスで10分」と書かれていた。しかし駅前でバス路線図を見たところ、駅から数えて三つ目のバス停だったので、バスに乗らず歩いて行くことにした。名前からして、昔はお城があったような、町外れの丘のほうへ向う道をテレテレ上って行くと30分足らずで着いた(注:このときは、てっきり「城山」は城があった場所だと思っていたけれど、あとで念のために調べたところ、三田には城はあったことはあったけれど、市街地のまったく別の場所だったらしい)。


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Hyogo, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 5)

球場名は城山球場で合っているけれど、表示は愛称の「キッピースタジアム」(三田市のマスコットキャラクターの名前なのだとか)となっている。

駐車場の脇を通ったとき、たまたま自家用車から降りてきたブルーサンダーズのユニホームを着た選手に会った。ユニホームで球場入りとは草野球っぽいなと思っていたら、「こんにちは」と挨拶された。球場の入り口では、マスコットが手厚く出迎えてくれた。とても礼儀正しいチームだ。


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Hyogo, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 5)

同じ兵庫県にフランチャイズがあったオリックス・ブルーウェーブ(現在のオリックス・バファローズ)にチームのロゴや色使いがなんとなく似ている。なお「サンダーズ」は雷の「Thunder」ではなくて「Sandars」と書かれていることから、単に「さんだ」に引っ掛けただけのようだ。

今日ここに来たのは、日本初の女性プロ野球選手・吉田えり投手が予告先発すると聞いたためだ。彼女のことは、数年前、別の独立リーグのチームの入団テストに合格したときにニュースで知った。その後、一時、アメリカの独立リーグのチームにいたのも聞いたことがあった。今年から、この三田ブルーサンダーズにいるという。

球場は数百人程度のスタンド席しか開放されていなかったけれど、半分以上埋まっていた。鳴り物付きの応援団もいる。吉田えり投手見たさに集まった客が多いのではないかと予想していたけれど、それ以外の選手の応援をしている人も結構目につく。新しい割に、地元に定着している球団のように感じられた。


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Hyogo, SONY α390 with MINOLTA AF ZOOM 80-200mm 4.5-5.6 xi (2013. 5)

対戦相手の紀州レンジャーズは和歌山のチーム。マスコットはクジラのようだ。口元の「W」は、笑っているのか、それとも「Whale」の「W」か。チーム名も「ホエールズ」にしておけば、それだけで私も贔屓にしていたかもしれないのに。


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Hyogo, SONY α390 with MINOLTA AF ZOOM 80-200mm 4.5-5.6 xi (2013. 5)

吉田えり投手の球種は、時速100~120kmといわれる直球と、売り物のナックルボール(直球と同じ速度か、それより若干遅い)なのだそうだ。スローカーブのような山なりのボールかと予想していたけれど、実際に見ると、普通の遅い球(?)だった。この日は、ナックルがストライクゾーンにかかっているうちは、内野ゴロに打ち取ることも多かった。だが、これが外れてバッターに見極められると、苦し紛れに投げる直球をきれいに打ち返されてしまっていた。

結局、5回を投げて4失点。球数は78球。しかし味方が5点取っており、5-4でリードしている場面での降板だった。その後サンダーズはいい感じで加点し、9-4で試合終了。彼女は勝ち投手になり、試合後にはヒーローインタビューを受けていた。


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Hyogo, SONY α390 with MINOLTA AF ZOOM 80-200mm 4.5-5.6 xi (2013. 5)

吉田えり投手は、ちっさくて可愛らしかった。けれど、それでいいのか。

この日までチーム10試合を消化して、今日を含めた彼女の通算成績は、2試合登板・2勝0敗・防御率6.43。勝ち運があるという見方もできるけれども、信頼して起用されるには物足りない数字だろう。

おそらく彼女の課題は、とりあえず、ナックルのコントロールの精度向上と、ナックル以外でストライクを取ることができる変化球をあとひとつくらい習得することあたりなのではなかろうか。たぶん、もっと野球に詳しい人たちからは既に言い尽くされているような気もするけれど。

そして、このチームが所属する関西独立リーグのほか、北陸や四国などにもある「独立リーグ」というのは「プロ」なのだろうかという疑問もある。関西独立リーグのチームは3つ、選手は無報酬だという。

「プロ」(プロフェッショナル)の定義とは、まず「それでお金をもらっている点」にあるはず、と、今まで当たり前のように思っていた。

しかしこれもWikipediaによれば、

「本来の意味は『職業上の』で、その分野で生計を立てていることを言い、『公言する、標榜する』が語源である。しかし、日本語としての『プロ』という言葉には、派生として以下の意味が含まれる」として、「ある分野について、専門的知識・技術を有していること、あるいは専門家のこと」「そのことに対して厳しい姿勢で臨み、かつ、第三者がそれを認める行為を実行している人」と書かれている。だから、派生のほうの意味でとらえれば、無報酬でも「専門的な知識・技術を持っていて第三者にそれが認められている」人はプロであるといえるわけである。

ちなみに吉田えり投手が最初に独立リーグのテストに合格した時、彼女は「日本初の女子プロ野球選手」だったけれど、後に「日本女子プロ野球リーグ」ができたので、現在は「日本唯一の女子プロ野球選手」というわけではない。

一方、三田ブルーサンダーズができたのは2011年。歴史は、まだ浅い。だが、今後、フランチャイズとしてこのチームが町に定着して溶けこんでいけば面白い存在になるのではないかと、いろいろ考えさせられたこの日の観戦であった。

以上をもって、今回の関西遠征報告終了。

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May 02, 2013

[Tour] 夕子の歩いた道を辿る(15) ’13. 5. 2

エピローグ

津母からの帰路、宮津行きのバスを、駅の手前で降りる。港がすぐそばにある。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 5)

現在、宮津港に発着する定期船は、一日一便の天橋立巡り観光船だけのようだ。港の近くに図書館があったので、帰りの列車までの時間つぶしも兼ねて立ち寄る。郷土資料のコーナーで「伊根町誌」という本を見つけた。泊や津母の、昔の様子が書かれていた。

町誌によれば、五番町夕霧楼の話の通り、当時、宮津と、丹後の海沿いの村の間は、海運が主な交通手段だった。しかし意外なことに、夕子が五番町へ発つ2年前の1949年に、泊から宮津へ行く航路は廃止されていた。では、泊や津母の住民は、その頃どうやって宮津へ出ていたかというと、伊根町の中心部まで約5km歩いて、そこの港から宮津行きの船に乗っていたらしい。泊にバスが通じたのは1956年ということも書かれている。現実は、小説より不便だったことになる。

そのような細かい点までは、作品を書くにあたって厳密に考証されたわけではなかったようだ。

もっとも五番町夕霧楼はドキュメンタリーではなく、世に出たのも、話の設定から10年以上後の1963年のことだから、些細なことまでこだわる必要もなかったのだろう。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 5)

以上で、延々書き連ねてきた夕子の足跡を辿る旅を終わりにしたい。実際のところ、実地に足を運んだ日数は数日間にすぎなかったわけだけれど、これだけ多く書いたのは、ひとえに私の思い入れによるところである。フィクションにしては地名や日時が具体的に書かれた箇所が多い作品であったがゆえに、かえって、いろいろと思い浮かんでしまった謎や疑問点は、今回、現地に赴いて解決できたことが多かった。

また、ブログに記事を起こしてみてあらためて感じたことだけれど、イメージに合わせて写真を撮ることは難しかった。正直いって、今回、このシリーズで載せた写真は、自分では結構不満があるものが少なくない。それは、普段、好き放題適当に撮影しているのに比べて、テーマに沿って写真を撮ることが、いかにデリケートかということである。

一方で、旅として振り返ると、ガツガツした旅行になってしまった気がした。今度は、時間にとらわれずに五番町や丹後を訪れる機会を持ちたい。そのときには、今回知ったことが糧となって、また違った印象を得ることができると思う。


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※このシリーズは延々16回にわたって書いてしまいましたが最初から読まれたい方はこちらからどうぞ。

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[Tour] 夕子の歩いた道を辿る(14) ’13. 5. 2

津母(京都府伊根町)

泊から、北のほうへ向う坂道を登る。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 5)

「…三つ股へ一里半の道は、樽泊の舟着場へゆく二た股道から、北へ岐(わか)れながら登り坂となる…一年前に、夕子が三左衛門につれられて、鼠いろにかすんだ経ヶ岬をうしろに遠ざけながら、京の五番町夕霧楼へゆくといって、二人の妹といっしょに歩いた道である。」
(「五番町夕霧楼」〔新潮文庫〕p.204)

作品の最後に、夕子の亡骸が、父親に背負われて樽泊の墓地から故郷の三つ股へ帰っていったときの道と、特徴がほぼ一致する。

だが、原作を読む限りでは、三つ股が現実にどこにあるか見当をつけるのは難しい。

「宮津から舟にのって、ずうーっと北の方へいくとつきますねん。半島の端の海べの村で、三つ股いいますねん。」
「あたしは、三つ股の村の三左衛門という木樵(きこり)のお父さんにうまれましたンや。その三つ股の村と樽泊の村は、一里ほどしかはなれてしまへんのやけど…」
(「五番町夕霧楼」〔新潮文庫〕p.114, 161)

夕子は、夕霧楼で働いていた同僚の敬子に三つ股の場所をこのように説明していた。

地図上で、泊から半径4~6kmの範囲で「三つ股」またはそれに似た地名を見つけることはできなかった。一方、泊から海沿いの道路を北へなぞると、そのあたりには本庄、蒲入という集落がある。

では本庄や蒲入が三つ股かといえば、それにも不自然さを感じる。なぜなら、これらの村落と泊の間には集落が他にもいくつもある。それなのに、幼い夕子が、日常、わざわざこれらの村を越えて6km先の樽泊まで行って正順と遊ぶ必要があったのか、という点からだ。

この謎が解けたのは、水上が、のちに書いた紀行文「丹波・丹後」(河出書房新社)の一節を読んだ時だった。

「津母の村の坂道を下りて海へ出た。村の家は段々になっていて、雨で洗われた道は石ころが出ていて歩きにくかった。…私はこの村に、一人の少女を置いてみたかった。このような淋しい土地にうまれた貧しい少女を、物語の主人公として追ってみたかった。与謝の暗さを一身にひきうけて、生きようともがきながら、結局、暗い運命に蝕まれて死んでゆく女のことを書いてみたいと思った。津母の村は、そのような女を私に夢みさせた。…与謝を去って、東京へ帰る山陰線の車中にあった私は、津母でひろった少女の名を『夕子』にしようと思っていた。汽車の中で名ができた。」
(「丹波・丹後」〔河出書房〕p.96-97)

この文章から、津母が、夕子の生まれた三つ股のモデルと考えられる。しかし五番町夕霧楼の中では、前回ふれたように、夕子が船に乗るくだりで「半島の突端にある経ヶ岬から、蒲入、本庄、野室、津母を経て樽泊へ立ち寄った便船…」と既に津母の存在が挙げられており、三つ股と津母は別ものと捉えてしまう。ゆえに、原作にこだわると、三つ股のモデルは見つけることができないのだ。

坂道を登りきると、眼下に津母の集落が見える。泊のT字路から歩いて15分くらい。家は道路と海岸の間のスペースに寄り添うように建っている。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 5)

2010年の国勢調査によれば、津母の人口は65人・世帯数は31戸とされている。家屋を建てられる場所がもともと限られているようにも見えるので、現在の家の集まり具合から見ると、意外と人口は昔から大きく変わっていないような気もする。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 5)

水上は、津母を訪れたとき、とてつもなく淋しく暗い印象を持ったようだ。しかしこの日は快晴のためか、私はそう感じることはなかった。

だが、この村で水上が強い衝撃を受けた野仏を見つけたときは、思わず足が止まった。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 5)

「…私は、車をとめた。道ばたに奇妙な野仏の一群を見たからである。よく見ると、それは地蔵のようでもあったが、そうでないようでもあった。なぜなら、地蔵菩薩は、だいたい石造で立っているのが普通だった。しかし、ここで見たものは、四角い額ぶちにはまった仏像である。御影石の平面に、一体もしくは二体の仏を刻んだものが、竹置場の隅に、まるで、無造作に捨てられたように、かためられてあった。」
(「丹波・丹後」〔河出書房〕p.90-91)

雨上がりの午後、おそらく今日とは全く比べ物にならないくらいくすんだ色彩の海沿いの村で地蔵像の群れに会ったとき、水上の心の中に、儚い少女の魂が乗り移ったのだろうか。

五番町夕霧楼の作品中には、意外にも、三つ股の集落や夕子の生家に関する描写はほとんどない。水上は、津母で受けたインスピレーションをそのまま19歳の夕子に投影し、作品に昇華させたのである。

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[Tour] 夕子の歩いた道を辿る(13) ’13. 5. 2

泊(京都府伊根町)

「京都の古い遊廓として栄えた西陣の五番町で、かなり名のとおった夕霧楼の主人である酒前伊作が、疎開先の与謝半島の突端である樽泊で急逝したのは、昭和二十六年の初秋である。」
(「五番町夕霧楼」〔新潮文庫〕p.5)

五番町夕霧楼の、冒頭のくだりだ。この物語の最初の舞台は、与謝半島の樽泊である。

与謝半島が丹後半島の別名であることは、前回、書いたとおりだ。しかし丹後半島には、「樽泊」という地名は存在しない。そこで、どの辺りにあるのか推理してみる。

「与謝半島の突端」や「遠くに経ヶ岬の燈台のかすんでみえる海が、うす墨を刷いたように灰いろにひらけてみえる…」(「五番町夕霧楼」〔新潮文庫〕p.6)という一節から、樽泊は、丹後半島の北端にある経ヶ岬の近くにあるように思われる。

けれども地図を見ても、経ヶ岬の近くには、これといった集落は存在しない。樽泊は、まったく架空の土地のようにも思われた。だが、あらためて地図と作品を丹念に見比べていったところ、この集落の具体的な位置関係を表した一文が目に留まった。

「樽泊はずいぶん辺鄙なところである。陸路をとると宮津へ出るまでには、一台きりしかない木炭バスで四時間もかかった。昔から成相寺の下に舟着場が設けてあって、海路をとって宮津へ出る便が都合がいい。…半島の突端にある経ヶ岬から、蒲入、本庄、野室、津母を経て樽泊へ立ちよった便船だった。」
(「五番町夕霧楼」〔新潮文庫〕p.18-19)

夕子が上洛するときに乗った船の経路を説明したものだ。

地図を見て初めてわかったことだけれど、蒲入、本庄、野室、津母は、いずれも丹後半島の東岸に実在する地名だった。そして津母の南方には「泊」という集落が続いていた。

この「泊」こそ、樽泊のモデルだろう。物語の舞台が、リアルな姿となって浮かび上がってきた。

実際は伊根町の一集落であるここへ、どうやって行くことができるか調べた。夕子は、上洛するときには船に乗り、最期、京都市内の病院を抜け出して戻る時には、宮津からバスを利用していた。とりあえず現在は、航路はない。路線バスは、半島の中ほどにある伊根町の中心部から泊を経由して津母まで行く便が、平日のみ一日三本あった。

しかしバスがあるとは言え、少なすぎやしないか。

丹後半島には、半島の付け根に当たる宮津や天橋立から経ヶ岬へ向うバスが走っている。これは観光路線で本数もそれなりにあるはずだし、基本的に海岸線の道を走っているようだから、やはり海の近くにある泊を通らないのはおかしくないだろうか…と思いながら、今度は地図とバス路線図を見比べていく。すると、道路はたしかにほぼ海沿いにあるけれど、経ヶ岬へ行くバスは、泊の辺りでは、やや山寄りのルートをとっているようだった。だが、泊から500mほど山側に入った「六万部」というところには、宮津と経ヶ岬の間を走るバスの一部が1~2時間毎に走っているようだ。先述した伊根から津母へ行くバスは、さらに海側の道を走っているようだった。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 5)

というわけで、夕子が樽泊へ戻った時と同じように、宮津駅で朝一番のバスに乗る。彼女は伊根行きのバスに乗り、伊根町で経ヶ岬行きのバスに乗り換えて樽泊へ行ったけれど、私が乗ったバスは、経ヶ岬まで直行する。車は天橋立や伊根(伊根も、現在は町中心部にある舟屋が観光地として有名らしい)を通り、約1時間で六万部へ着いた。

バスを降り、海のほうへ歩く。10分ほどで泊の集落に入る。海に突き当たって左右に割れるT字路の手前に神社があり、その並びにお寺があった。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 5)

正確には、お寺の跡だ。朝妻山松岩寺という名だったこのお寺は1961年に閉山し、現在は公民館の看板が掲げられている。

「…一だん高い山のはなに、灰いろのそり棟の屋根のみえる浄昌寺の本堂が、常緑樹の梢(こずえ)の合いまに、桃いろの百日紅(さるすべり)の花のかたまりをのぞかせてかすんでみえる。」
(「五番町夕霧楼」〔新潮文庫〕p.18)

作品に登場する樽泊の浄昌寺は見晴らしのよいところにあったけれど、ここは、海には近いものの、高台にあるわけではなく展望もきかない。

しかし泊には、ここ以外に寺はない。つまり、正順がいた浄昌寺は、ここがモデルということになる。もっとも、もうひとつのモデルである、林養賢が生まれ育った西徳寺は、ここから直線で20km離れた舞鶴市の郊外にある。水上はこの作品で、泊という村落を借りて、見晴らしのよい土地に寺を創り、そこに養賢を模した正順を託したにすぎない。だから、この寺が浄昌寺と似ていなくても、それは、大した問題ではないのかもしれない。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 5)

「伊作の遠縁の者たちにおくられて、樽泊の村を出たかつ枝は、久子に荷物をもたせて、舟着場のある浜まで下りていったが、片桐父娘たちは、早めに桟橋に出て待つことにしておいたので、村を出る時は、人目につかなかった。せめてもの思いやりだった。」
(「五番町夕霧楼」〔新潮文庫〕p.18)

桟橋は、集落の中心に近いところにある。夕子は、ここから船に乗ったのだろうか。

桟橋の近くは、砂浜になっていた。

夕子が乗った船を、彼女の父親と妹は、浜の上から手を振って見送っていたという。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 5)

その砂浜を見下ろすことのできる高台の土地に、共同墓地があった。山の斜面をわずかに切り開いて造られたと思われる、小さな墓地だった。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 5)

フィクションだと頭の中ではわかっていても、作品の最後のシーンのイメージが強烈にかぶったことは言うまでもない。

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May 01, 2013

[Tour] 夕子の歩いた道を辿る(12) ’13. 5. 1

若狭本郷(福井県おおい町)

丹後地方の地理にあまり詳しくない私は、夕子の故郷は、てっきり養賢の生まれ育った寺のある集落がモデルだと思っていた。

しかしあらためて調べると、そうではなかった。

養賢の出身地は、京都府北部・舞鶴市の日本海に面した集落の成生(なりゅう)。これに対して、夕子が生まれたのは、「与謝半島の三つ股」だ。

「与謝半島」という名前を聞いたことがなかったので、架空の地名かと思っていた。だが、丹後半島のことを、別名で与謝半島と呼ぶこともあるようだった。丹後半島には、天橋立や宮津、経ヶ岬など著名な観光地が多い。観光地イメージを嫌って、作品では、あえて、メジャーとはいえない別名を使ったのかもしれない。

そして、なぜ舞台を成生ではなくて、その近所の丹後半島にしたかといえば、水上が、やはりこの近くにある福井県大飯郡おおい町で生まれたため、似た場所を物語の舞台として使い分けられるほど、この辺りに関する知識が豊富だったことが理由の一つとしてあったのではないかと考える。水上作品には、ほかにも、この地方を題材としたものが多数ある。


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丹後半島へ行く前に、水上の故郷の、おおい町に立ち寄った。福井県の西端にある、おおい町の中心にあたる旧・本郷村が、彼の出身地だ。最寄り駅はJR小浜線の若狭本郷である。

電車を降りて改札を抜けてから、駅舎を振り返って見て、その外観にギョッとする。


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Fukui, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 5)

1990年に大阪で開催された「国際花と緑の博覧会」で、会場内を走っていた遊覧鉄道の「風車の駅」という駅の駅舎を移設してきたものだという。

駅前には商店は少ないけれど、道路は整備されている。少し歩くと、ひと気のない立派なグラウンドがある。ベンチにもたれたマスコットキャラクター「うみりん」(中に人が入っているのかと思ってまたびっくりしたのだけれど、実際には空気しか入っていなかった)から、力のない目線を送られる。


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Fukui, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 5)

この町の海岸部には、関西電力の大飯発電所がある。現在、日本で唯一稼動している原子力発電所だ。こぎれいなインフラは、交付金の賜物だろう。もし水上がまだ生きていたら、故郷の今の姿に何を思い、著していただろうか。


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Fukui, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 5)

水上ゆかりの施設として、町の郊外に「若州一滴文庫」がある。彼が主催していた若州人形座の人形、宗教・文学・美術関係の資料、蔵書などがある。展示物は数十分あれば見て回れるけれど、水上の著作などが数多く所蔵された図書室に入り込んでしまうと、時間がいくらあっても足りなくなる。


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Fukui, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 5)

若州一滴文庫の名前は、この町出身の、儀山善来禅師の「一滴の水を惜しめ、草や木の命の声を聞け」という教えに由来する。

夕子も、正順も、養賢も、この地方の自然の中で生まれ育った。

そして今、ここには、原発がある。

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