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April 2013の13件の記事

April 28, 2013

[Tour] 夕子の歩いた道を辿る(11) ’13. 4.28

保津峡(京都府亀岡市)

五番町夕霧楼の終盤では、登場人物が次々に亡くなっていく。鳳閣寺が火災にあったのを知って故郷から見舞いのため上洛した正順の母親・シゲが、息子が犯人だったことを聞いて、帰りの山陰本線の列車から身を投げる。三週間後には、正順が留置場で自殺。それを知った夕子も、故郷・樽泊の墓地で命を絶つ。

シゲの死は、金閣寺放火事件の犯人・養賢の母である志満子が死んだ過程と、ほぼ軌を一にする。

「林志満子は、七月二日の午すぎ、大江山麓尾藤部落の実家を訪れた福知山署員から、金閣焼亡のことと、息子養賢の行方不明を告げられて動顚(どうてん)した。西陣署の連絡をうけた福知山署が、尾藤へ養賢が帰っていないかを探りにきたのである。もちろん養賢はいなかった。志満子は弟の勝之助を伴い、福知山署員と京都へ急行した。京都に着いてから、志満子は養賢の逮捕を知った」
(「金閣炎上」〔新潮文庫〕p.247-248)

彼女は警察で養賢との面会を試みた。だが、養賢から拒否された。失望した彼女は「子の罪を身をもって償いたい」と漏らし、帰りの列車から飛び降りた。

「新聞によると、林志満子は三日の午後四時四十五分京都発城崎行八三一号列車に花園駅から乗った。…汽車が保津峡駅をすぎ、馬堀駅にさしかかる手前に鉄橋がある。下は深い渓だ。志満子はとつぜん下駄をぬいで、デッキの端へ走り、勝之助が眼を放したすきに身を投げたのだ。デッキに扉はなかった」
(「金閣炎上」〔新潮文庫〕p.17)

当時の山陰本線は窓も扉も開閉自在の客車列車だったため、走行中に飛び降りることは容易だった。

現在、この区間の線路は、そのときと別のルートに付け替えられている。けれども、古い線路は保津峡の渓谷沿いの、景色がよいところを走っていたため、廃線にはならずに観光用のトロッコ列車が走るようになった。

そのトロッコに乗ってみた。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

鉄橋は、列車の終点(現在は「トロッコ亀岡駅」という名前になっている)に着く直前にあった。ここなら列車も速度を落とし始めているし、狙いをつけて川に飛び込むのも比較的簡単だろう…でも川は深くないな…などと、観光客で賑わう車内で、自殺した母親の気持ちをいろいろ思い量る。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

折り返しの列車を撮ったあと、後ろを振り返ると、なぜか大量のこいのぼりが夕陽にはためいていた。そういえば、もうすぐ子供の日だ。しかし、息子に思いを馳せて身を投げた彼女の気持ちを思うと、鯉のぼりとは対照的に気は沈んだのだった。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

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[Tour] 夕子の歩いた道を辿る(10) ’13. 4.28

等持院(京都府京都市)

金閣寺から南へ歩く。立命館大学の構内を通り過ぎて、さらに少し下ると、足利尊氏の墓所があることで知られる等持院の大きな看板が目に入る。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

ここは、少年時代の水上が相国寺を脱走したあと、旧制花園中学校を卒業するあたりまで、約3年半の間修行していた寺でもある。水上は、中学を卒業する1936年(昭和11年)の1月に五番町へ行き、学校よりひと足先に童貞を卒業した。つまり、そのときにはここに住んでいたわけで、等持院は、五番町夕霧楼の中には出てこないけれど、まったく縁がないというわけでもない。もっとも、卒業した年の5月には市内下京区八条坊城の親戚の家に転居したので、ここから五番町へ足を運んだのは、ごく短い間だった。なお水上は、その翌年に立命館大学に入学したけれど、当時、立命館大学は上京区寺町広小路にあり、この近くに校舎が作られたのは第二次世界大戦後のことだ。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

等持院をあとに西へ向う。10分ほど歩いたところに「笑福亭」という小さなうどん屋がある。水上が等持院にいた頃、よく食べていたらしい。また、昔、やはりこの近所に住んでいた井上靖氏もよく来ていたそうで、どちらかというと井上氏お気に入りの店として知られている。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

彼らが好きだったというきつねうどんを、私も食べてみた。

どこがどう旨いというより、ひと言でいえば、近所にあったら通いたくなるような店であり、味だった。

たぶん私が入るのにつられたのだろう、すぐ後に、外国人観光客のグループが店に入ってきた。彼らが、見てもわからぬ日本語のメニューを手に、適当に「Chicken」と言って注文したのに対して、店のおばあさんは少し思案したあと、鴨南蛮を作っていた。さすがは観光地・京都のお店だ。それにしても、メシ屋で適当に「Chicken」と宣言することは、異国で食事をするときには結構使えそうだ(…)。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

店の近くには、嵐山方面へ行く「嵐電(らんでん)」という鉄道が通じている。八ツ橋「夕子」の広告が車体に描かれた電車を見た。

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[Tour] 夕子の歩いた道を辿る(9) ’13. 4.28

金閣寺(京都府京都市)

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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

作品では「鳳閣寺」という名で登場する金閣寺。金閣の頂には金銅製の鳳凰が付いている。金閣が火災にあったときには、たまたま取り外されており難を逃れた。1999年には、京都市指定文化財に指定された。

「鳳閣はこの池の北畔に建っている…頂上の中央部に、金箔でぬりつぶされた鳳が、羽をひろげて池の水面をにらみとまった恰好にみえる。鳳がいることによって鳳閣といわれたのである」
(「五番町夕霧楼」〔新潮文庫〕p.172-173)

水上は、ここから鳳閣寺の名前をつけた。なお現在の金閣の屋根上に付いているのは、やはり別のもので、オリジナルは屋内に保管されている。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

1398年(応永5年)に完成し、応仁の乱で周囲の多くの建物が焼かれたときも残った金閣は、1950年7月2日未明、林養賢の放火で焼失した。

金閣は1952年から3年かけて、古文書などを参考に修復された。焼失前の金閣は、金箔が剥げた簡素な姿だったといわれていた。しかし建て替えられた金閣は、金ピカだ。だが、それは、よりオリジナルに近い姿であるといわれていた。

しかし、復元後の金閣も10年経ったころからやはり金箔が剥がれはじめ、下地の黒漆まで褪せてきたため、1986~87年にかけて「昭和大修復」と呼ばれた再修復が行なわれ、現在に至る。

おそらくそのとき、そう簡単には劣化しない修復が施されたものと思われ、その後四半世紀以上経った今、劣化や改修等の話を聞くことはなくなった。けれども、焼失前の造りに忠実に復元したのであれば、金箔が剥がれやすかったり、下地が色褪せたりすることも、仕様のひとつではなかったのだろうか。そうであればそのまま放っておくほうが、かえって趣が出てよかったのではなかろうかと私なんぞは思ってしまうのだけれど、おそらくそれは、関係者の美意識とは違っていたのだろう。もっとも金箔が剥がれて吹っ飛んでいくのももったいないことではあるし、そしてやっぱり現実は、金ピカ状態が維持されたほうが望ましい姿だとマジョリティの方々は感じるのであろう。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

養賢は金閣に火を放ったあと、寺の裏手に当るところに位置する左大文字山に登った。

「…自分も三階へあがつて金閣と一しよに死のうという考えがおき、二階へ上ろうとしたが鍵があかない。…恐ろしくなつて急に金閣をとび出し、池のへりにすくんで、金閣の燃えるのを見ていたが、火勢が大きくなると、池の岸ではよく見えないので、山へのぼつて見ようと考え、不動堂のわきから大文字山へ走りあがつた」
(「金閣炎上」〔新潮文庫〕p.233)

養賢は、この日の夕方、山の中腹で催眠薬のカルモチンを飲んで苦しんでいたところを逮捕される。五番町夕霧楼の櫟田正順も、この間の行動は、おおよそ養賢に倣っている。

地図上では、金閣寺から左大文字山へ、ほぼ一直線の山道が通じている。しかしこの道は、現在、通行止めとされている。寺から見ると、山の西側から回り込む形でもうひとつ登山道があり、こちらは通ることができるので、途中まで登ってみた。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

振り返ると、京都市街が眼下に見える。死ぬつもりだった彼は、そのとき、金閣寺の向うに拡がる市街の眺めまで気が回っていたのだろうか。もし気付いていたら、きっと、もっと別のことを想うところがあっただろう。そんな、豊かな景色だ。

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[Tour] 夕子の歩いた道を辿る(8) ’13. 4.28

東山武田病院(旧・京都専売病院)跡(京都府京都市)

夕子が結核を患って入院した病院は、市内東部の東山五条にある「大和病院」だった。かつ枝が入院する夕子を連れて病室に入った時、彼女にこう語りかけている。

「夕ちゃん、ええ部屋やなァ…うちもこんなとこで、一日ごろんと寝てみたいわ。ほら、みなはれ、東山から、大文字から、比叡山から、北山までまる見えやおへんか」
(「五番町夕霧楼」〔新潮文庫〕p.156-157)

病室は三階だった。夕子は、のちにこの部屋で鳳閣寺(金閣寺)の燃える様子を遠目に見ることになる。

東山五条から金閣寺までは、結構距離がある。直線で、およそ7km。三階程度の高さの部屋で、それほど眺望がきくのだろうか。読んだ時に、まず引っかかった点だった。

五番町から東山五条へ向う。市バスを乗り継いで、30分以上かかった。ここでさらに気になったのは、なんでわざわざ東山五条の病院を選んだかということだ。同じ市内でも、もっと近くに、いくらでも病院はあるのではないだろうか。

東山五条から五条通を少し入ったところに歩道橋があった。民家であれば二~三階くらいの高さはありそうだ。階段を上って、金閣寺の方角を見る。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

現在、京都市内の建築物には高さ規制がある。それでも、三階くらいの高さでは、遠くを見渡すことは難しいことがわかる。当時は今ほど高い建物がなかったであろうことを差し引いて考えても、山はともかくとして金閣寺は見えただろうかというと、なんとも微妙な感じがする。

それでは、夕子はなぜ、あえてこの街で入院したのかあらためて考えてみる。ここと金閣寺を直線で結ぶと、おおよそ、その中間に五番町がある。なんとなく地理的に収まりがよい。だから、この東山五条にしたのではないかという気がした。もっとも、百歩譲って金閣寺は見えたとしても、五番町の夕霧楼を見極めることは不可能だったと思う。

この病院にも、モデルはあったのだろうか。

「大和病院は、東山通りの五条を下った右側にある。昔の、豊国廟といわれた、太閤秀吉を祀る神社のつづきになっていた」
(「五番町夕霧楼」〔新潮文庫〕p.156)

豊臣秀吉を祀った豊国神社という神社は、京都市東山区に実在する。そしてこの神社から東へ進み、東山通を渡ったところに大きい病院があることが、地図で確認できた。東山通を五条から下っていくと左手に当たるのが、ちょっと違っているけれど。

この病院は、東山武田病院という。その前は京都専売病院という名前だった。この名を聞いてピンとくる人もいるかもしれない。昭和の時代にたばこや塩を扱っていた日本専売公社があった頃にできた病院である。京都専売病院は2005年に事業が承継されて東山武田病院になった。しかしながら、地図に名前は残っているものの、実際には、2011年に東山武田病院は閉院してしまっていた。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

現在、そこではホテルの建設が行なわれている。「病院の跡地にホテルを建てる」と聞くと霊感の強い人などは気にするかもしれないけれど、構わず、工事は進んでいるようだった。

この病院が、夕子が入院した大和病院のモデルと考えてほぼ間違いないだろう。

しかし、そう思って夕子が入院していた頃の病院の様子を調べようとして、またもや唸ってしまった。

京都専売病院がこの場所で開業したのは1956年とされている。それまで、ここは隣接する妙法寺というお寺さんの土地だった。しかし、夕子が入院したのは1952年。まだ病院はできていなかったのだ。東山武田病院のホームページによれば「1948年に旧京都専売病院は日本たばこ産業株式会社の社員とそのご家族の福利厚生施設として開設された」とあるので、もしかすると近所から移転してきたのかもしれないけれど、移転前にあった場所までは特定できなかった。夕子の病院探しは、また振り出しに戻るのか。

再度、この近くで病院があったかどうか探してみた。東山武田病院跡地から見て東山通をはさんだ反対側にある古びた灰色の建物が、いかにも病院くさい感じがして気になったのだけれど、後で調べたところ、これは病院ではなくて、東山区役所の旧庁舎なのだそうだ(↓)。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

結局、他に病院を見つけることはできなかった。もっとも、五番町夕霧楼が発表されたのは1962年のことである。水上が執筆したときには、京都専売病院はおそらくこの場所で既に開業していたことだろう。病院の名前も架空だし、その辺の時代考証は適当にやっていたのではなかったのかと、作者には失礼な気はするけれど、ここはひとつ、そう強引に結論づけたい。

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[Tour] 夕子の歩いた道を辿る(7) ’13. 4.28

五番町(3)(京都府京都市)

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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

下衆の勘繰りと思われる方もいるだろうが、当時の五番町での遊び代について具体的に考えてみる。

「片桐夕子は、意外な値段である二万円で、当時では、若いサラリーマンの五月分の給料に相当する金額で、軀を甚造に売ることになった」
(「五番町夕霧楼」〔新潮文庫〕p.51)

夕子が夕霧楼で初めて客をとった、水揚げのときの金額である。給料との比較は、とりあえずわかりやすい。検証したところ、1951年4月の国家公務員行政職の六級職(大学卒程度)の初任給は5,500円だった。厳密に判断すれば二万円は給料4ヶ月分くらいと捉えるのが妥当か。ただし4月に改定される前は4,223円であり、一気に30%以上増えていた。インフレの時期だったのだ。現在の若手サラリーマンの給料を20万円とすると、5ヶ月分は100万円になる。実際、当時の帯問屋はそれほど羽振りが良い商売だったのだろうか。

一方、夕霧楼の通常価格はいくらだったのかという点について書かれた箇所はほとんどない。

「お新が、あの妓は新入りで水揚げがすんだばかりだから、時間の花でも、三百円はもらわねばならないというと…」
(「五番町夕霧楼」〔新潮文庫〕p.78)

正順が初めて夕霧楼に来たときに、ひき手婆のお新が正順に話した場面だ。しかしこれは、通常価格というより、正順の風貌を見て、彼女が多少ふっかけた値段ととれるだろう。ちなみにこれを若手サラリーマン給料理論で換算すると、1.5万円になる。

金閣炎上では、養賢が実際に入った泉楼で使った金額が書かれている。

「…遊興費は三百七十五円だった。養賢は上着のポケットから紙幣を四枚だして、それを机の上におき、『つ、つ、釣り銭はいらん』といって廊下へ出た」
(「金閣炎上」〔新潮文庫〕p.222)

400円を同様に換算すると、2万円。夕霧楼よりやや高めの値段だ。だが、大学生でも気張ればたまには行くことができる程度であることも何となく理解できる。

しかし、養賢が三日連続で五番町に行った時の原資は、その直前に父の遺品を含むコートなどの衣類を売った金であるとされている。五番町夕霧楼では、正順が払うべき花代を夕子がときどき負担していたことに対し、身の回りの品を売って金を工面した養賢の心を思うと、その目的が遊廓のためとは断定できない(個人的には、身辺整理の要素が強かったように思う)ものの、また気が重くなる。

作者の水上の意にはそぐわないのかもしれないけれども、私には、フィクションの中の正順が見た五番町と、実在した養賢の目に入ったこの町の光景は、全く違って映っていたように感じられる。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

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[Tour] 夕子の歩いた道を辿る(6) ’13. 4.28

五番町(2)(京都府京都市)

再び五番町へ足を運ぶ。

夕霧楼はこの町のどこにあったのか、具体的に考えてみたい。

かつ枝が夕子の貯金通帳を郵便局で作るくだりがある。そこで彼女は夕霧楼の住所を書いている。

「かつ枝は、局員からさし出された紙切れに、右上りの下手くそな楷書で、京都市上京区中立売通り千本西入ル五番町一二三番地夕霧楼、片桐夕子と時間をかけて書き、新しい楕円形のハンコに、はあーっと息をふきかけてさしだした」
(「五番町夕霧楼」〔新潮文庫〕p.70)

地図サイトで123番地を探してみた。けれども見つけることはできなかった。実在しない番地なのかもしれない。

他にも、いくつか夕霧楼の場所のヒントが書かれている箇所はある。

「夕霧楼は、千本通りからわずかに入った角の地に建っていたが、その建物はずいぶん古びていた」
「そのよく朝、まだ妓が起きない時刻に、かつ枝は急に思いついたように、茶羽織をひっかけて表へ出ていった。かつ枝は、同じような妓楼の建物が両側にならんでいる、人影まばらな通りを左に折れて、電車通りへ出た。千本通りだった」
(「五番町夕霧楼」〔新潮文庫〕p.23, 69)

五番町は、南北に200m、東西は100mの大きさしかない。実は小さな町である。遊廓は五番町の周りまで広がっていて、その中心にこの町があったのだ。あらためて地図で調べると、五番町の中で「左に曲がって千本通に出る道」はひとつだけ。現在、千本日活のある場所から東へのびる上長者町通だ。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

画像の前に広がる道が上長者町通。その先に見える信号機が千本通との交差点だ。

千本日活の向かい側には、今はマンションが建っている。そこから千本通までは約60m。番地以外は、このマンションが夕霧楼の場所にほぼ合致しているのではないかと思う。先述した通り、千本日活は五番町遊廓の組合事務所があった場所だ。夕霧楼は、五番町の真ん中にあると想定していたのだろう。

ついでに、かつ枝が通帳を作った千本通の郵便局の場所も検証してみる。

「静かな町を早足で歩くと、本屋や、床屋や、喫茶店などがならんでいる向い側の軒下へよって、間口のせまいハンコ屋を思い出してさがしはじめた。やがてその店がみつかると、そこで『片桐』とした三文判を買った。そうしてかつ枝は、そのハンコ屋から四軒ほど南へ下った地点で、黒い制服を着た郵便局の若い男が表に打水をすまして、今しがたドアをあけたばかりの、スタンプインクの匂いのする、局の中へ入っていったのだった」
(「五番町夕霧楼」〔新潮文庫〕p.70)

ここもやけに描写が細かい。けれども今、この辺りには郵便局はない。私が住んでいた頃の記憶にもない。仮に実在していたとしても、だいぶ前に移転もしくは廃止されてしまったものと思われる。

しかしかつ枝が三文判を買ったハンコ屋の場所あたりに、文具店があった。彼女は、郵便局が開いたばかりの時間にハンコを買っている。登校する生徒のために朝から店を開ける地域密着型の文房具屋は、昔は結構あった。ここもそうなのだろうか。朝9時少し前、かつ枝が出かけたのと多分ほぼ同じ時間に五番町から千本通に出て丸太町の方向へ歩く。すると、件の文具店は、既に開店していた。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

この店では切手や印紙も扱っている。もしかすると、近くに郵便局があった名残かもしれない。必ずしも文具店が三文判を扱っているわけではないけれど、ハンコを買った店は、ここでよいという気がする。なお、ここから四軒ほど南へ下ったところには、真新しい担担麺の専門店があった。

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April 27, 2013

[Tour] 夕子の歩いた道を辿る(5) ’13. 4.27

団栗橋(京都府京都市)

「…そんなら、九時にな、どんぐり橋上がったところの『あすなろ』で待っとるか」
(「五番町夕霧楼」〔新潮文庫〕p.39)

甚造が夕子と初めて会うときに指定した「あすなろ」という店があった、どんぐり橋。「団栗橋」と書くこの橋は、京都随一の繁華街・四条河原町から200mほど下ったところにある、鴨川に架かっている。

日が落ちてから、団栗橋を訪ねる。鴨川には三条大橋、四条大橋や五条大橋など有名で大きな橋がいくつもあるけれど、団栗橋はその間にあって、目立たず地味な佇まいである。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

夕子が来た1951年と現在とでは大きく変わっているのは当然としても、古くからの盛り場のすぐそばにあるのに、この周囲だけが寂れたとは考えにくい。

この橋については、こんな記述もある。

「…あんたはん、まじめなとこへゆこいうて、京へ出やはったはええけど、すぐにまじめなとこやめてしもて、橋下やら、木屋町のどんぐり橋あたりで、パンパンしてはる娘はんはいくらもいやはりますえ」
(「五番町夕霧楼」〔新潮文庫〕p.15)

都会の中の闇、的な場所だったのだろうか。河原町には何度も行ったことのある私も、団栗橋の存在は、実はこの本を読むまで知らなかった。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

「あすなろ」については、店の様子が結構詳細に描かれている。

「どんぐり橋の『あすなろ』は、川底の高い高瀬川に裏口をみせていて、かなり古い名の通ったバアだった…川べりの窓のボックスに坐ると、高瀬川の川草が昆布のように浮いて流れてみえる。澄んだ川面が夜明りをうけて光っている。なるべく川のみえるボックスに座をとって、かつ枝は夕子にジュースをとってやり、自分はウィスキーの水わりをたのんで、少しずつすするように口をつけて待っていた」
(「五番町夕霧楼」〔新潮文庫〕p.40)

だが、実際に歩いてわかったことだけれど、団栗橋から上がったところには、窓から直接高瀬川を見下ろせる店はなかった。川と建物の間に歩道が通っているのだ。逆に南の方へ進んでいくと、団栗橋から続く道と交差する地点から十数m下ったところで歩道は途切れており、そこからしばらくは、高瀬川沿いに数軒の店が並んでいる。意外に感じたのは、川沿いの店の全てがリバービューの作りになっているわけではなく、窓のない壁だけが岸に面している店もあることだった。木が繁っていて昼間でもあまり明るくなさそうだし、川面の眺めは意外にショボいのかもしれない。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

もっとも、対岸の道路から木漏れ灯の如く店内が光っているのが垣間見えるのは、非常にムードがある。水上は川向こうからの景色を見て、ここに夕子を連れてくることを考えたのかもしれない。

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[Tour] 夕子の歩いた道を辿る(4) ’13. 4.27

五番町(1)(京都府京都市)

「五番町は、京都人には『ゴバンチョ』と少し早口でよばれる語調をもった、古い色街である。詳述しておくと、西陣京極のある千本中立売から、西へ約一丁ばかり市電通りを北野天神に向かって入った地点から南へ下る、三間幅しかない通りである。この通りは丸太町まで千本と並行してのびているが、南北に通じるこの通りを中心として、東西に入りこむ通りを含めて、凡そ二百軒からなる家々は軒並み妓楼だった」
(「五番町夕霧楼」〔新潮文庫〕p.21)

市電が無くなった今も「市電通り」と呼ばれる中立売通。西陣京極から来て、この文章のように道を曲がるとすぐ、右手に、お寺の白い土塀が目に入る。報土寺というお寺さんで、周辺の廓で亡くなった遊女の遺体を引き取り弔ってきたといわれている。この反対側に遊廓が並んでいて、ここから五番町の街が始まっていた。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

五番町の、花街としての歴史は江戸時代初期にさかのぼる。しかし昭和に入ってからここは娼妓ばかりの町となり、「職人が通う花街」「下級花街」のイメージを持たれていたという。

五番町夕霧楼の元ネタのひとつである金閣寺放火事件の犯人・林養賢は、犯行の二週間前、五番町に少なくとも三日連続で来ていたようだった。当時、養賢は21歳だった。五番町夕霧楼の正順も、同じ年齢の設定だ。旧制中学を卒業する年の一月にこの町で童貞を捨てたという水上が足を運んでいたのも、彼らに近い年頃だったと思われる。私の学生時代には、花街なんて、はるか彼方にそびえ立つ敷居の上の存在だった。それに比べると、大学生だった養賢や水上が来ることができた五番町は、やはり、現在に残る花街とは相当に性質の違う存在だったのだろう。

養賢が遊廓に来たときの様子は、この作品のあとに水上が書いた「金閣炎上」に、彼と、ふた晩会った娼妓・輝子の言葉として記されている。

「『わ、わ、わしは、昨日、あんたに童貞やというたけど、あれは嘘や。十七日に、ほかの店へあがっとった。けどあそぶことはあそんだけど、ちゃんと床はつけへなんだ…せやさかい、半童貞やった』養賢は、それを云いにきたかったというふうに、わらったのだった。そして立ち上がると、大急ぎで廊下へ出た。…輝子はあとを追ったが、三和土には三、四人のぞめき客がいた。そのうしろへ廻ってかくれるように去る養賢は、輝子の方をふりむかなかった。」
(「金閣炎上」〔新潮文庫〕p.224)

1950年6月17日、五番町の、別の店で「ちゃんと床はつけへなんだ」養賢は、翌日、輝子と初めて関係を持てたものの、19日に来たときには、寝ることもなく、花代を彼女に渡すと、こう言い残して店を出ていったという。そして7月2日の未明、金閣寺に火を放つ。

養賢は、正順のようにここに知り合いがいたとか、水上のように何度もこの町を訪れていたとかいうわけではなかったようだ。むしろ、やらかす前の、心の整理の一環として、当てもなく、しかし気合を入れて、五番町に来たのではないかと感じる。小説から離れてリアルに思いをめぐらすと、気持ちが重くなる。

五番町の遊廓は、売春防止法が施行された1958年に廃業した。

花街でなくなった後の、五番町の店の多くは、そのポリシーを引き継がなかった。この街は風俗街にも歓楽街にもならなかった。遊廓だった建物は、取り壊されたものもあれば、安い賃料で学生や外国人に部屋を貸していたところもあった。もっとも、それもおそらくはせいぜい私が住んでいた頃くらいまでで、今ではほとんどが建て替えられて、一見、普通の住宅地になっている。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

現在、町の中心には「千本日活」という年季の入った成人映画館がある。もともとこの場所には五番町遊廓の組合事務所があった。売春防止法の施行とほぼ同じ時期に「五番街東宝」という名前で開場し、のちに千本日活と改名した。ここに映画館を開いた人は、遊廓が無くなった後の五番町を新しい娯楽の町にしようという思いがあったのかもしれない。売春防止法が施行されたのは1958年。日活がロマンポルノを始めたのは1971年。両者が連続していたわけではなかった。そもそも遊廓と成人映画は、ベクトルは近いかもしれないけれど値がまったく異なる。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

輝子がいた店があった場所に行ってみると、屋号を少し変えた、まったく別の商売をする店があった。建物の一部は、おそらく昔のままの、くすんだ木造だった。

そこから歩いて5分程度の場所にある、25年前に私が住んでいた建物は、すっかりきれいに建て替えられていたけれども、マンションの名前は、昔は漢字だったのをローマ字に変えただけで、面影を残していた。おそらくは、経営者の屋号に対する愛着やこだわりからだろう。

町の外観は変わっても、歴史は静かに続いている。

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[Tour] 夕子の歩いた道を辿る(3) ’13. 4.27

西陣京極(京都府京都市)

千本今出川と千本丸太町の間の千本通は、かつて京都の中でも有数の繁華街だったそうだ。市内中心部にあるため、もちろん、今でも商店の数は多い。だが目立つのは、地元民向けのスーパーマーケットやパチンコ屋ばかりで、現在は、よそからの客を呼び寄せるパワーはあまり感じられない。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

千本今出川から南へ歩いていくと「無印良品」の店がある。ここには昔、「千本座」という芝居小屋があった。千本座の経営者だった牧野省三が1907年(明治40年)に日本初の映画を制作したことから、「日本劇場映画発祥の地」というプレートが掲げられている。最盛期には、この地域には数十軒の映画館があった。


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Kyoto, SONY α390 with MINOLTA AF 35mm F2 (2013. 4)

夕子が上洛してまもなく、夕霧楼主・かつ枝は、彼女を西陣京極の映画館へ連れて行く。

「『あしたな、うちが、活動写真観につれてったげる。ほしてな、そこらへんの道を教えたげるさかい、いっしょにおいで』…やがて、約束どおり、夕子をつれて、五番町から五分もあれば歩いてゆける西陣京極へゆき、二本立ての映画を見た」
(「五番町夕霧楼」〔新潮文庫〕p.36, 38)

千本座のすぐそば、そして五番町からもそう遠くないところにある西陣京極にも、当時は映画館や劇場があった。現在も西陣京極は、その名前は、一応は残っている。しかし映画館などは既になく、小さな飲み屋が何軒かあるだけだった。


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Kyoto, SONY α390 with MINOLTA AF 35mm F2 (2013. 4)

このときにかつ枝と夕子が映画を見たという西陣キネマ(上の画像の道路左手、金網が張られているあたりにあったらしい)は1984年に閉館していた。

閑散とした細い路地だけ見ていると、ここに映画館があった時代の栄華など偲ぶ由もない。しかし一帯を実際に歩くと、昔、この辺りは、五番町まで含めて、大きな歓楽エリアだったことがおぼろげに理解できる。

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[Tour] 夕子の歩いた道を辿る(2) ’13. 4.27

今出川浄福寺(京都府京都市)

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Kyoto, SONY α390 with MINOLTA AF 35mm F2 (2013. 4)

上立売通を千本まで行かずに、手前の浄福寺通を左に曲がる。数分で大きな通りに出る。今出川通だ。ここに、西陣帯の問屋を営む甚造の店・竹末商店があった。


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Kyoto, SONY α390 with MINOLTA AF 35mm F2 (2013. 4)

「竹末の店は、今出川通に面していたので、時々緩慢な市電の通る音がしていた」
(「五番町夕霧楼」〔新潮文庫〕p.25)

今出川浄福寺は現在、マンションとスーパーマーケットと、若干の古くからの店が混ざる町になっている。市電は1976年まで走っていた。今出川通と千本通が交わる千本今出川との間は市電で一区間・数百メートル程度だ。千本今出川から五番町に向かって千本通を下る(※)間にも市電は通っていたけれど、その道は繁華街で、また、歩いていけない距離でもなかった。五番町で遊ぶには手頃なロケーションに、甚造の店はあったことになる。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

(※)京都市内では日常的に、北へ行くことを「上る」・南へ行くことを「下る」・東または西へ行くことを「入る」と言う。

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[Tour] 夕子の歩いた道を辿る(1) ’13. 4.27

相国寺(京都府京都市)

京都御所近くにある相国寺は、臨済宗相国寺派の総本山であると共に、水上勉が幼い頃に修行した寺としてその名前が知られている。水上がそのときの経験を「雁の寺」などの作品にしたためたのは有名だ。


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Kyoto, SONY α390 with MINOLTA AF 35mm F2 (2013. 4)

水上がいた瑞春院には、看板と同じ大きさで「雁の寺」と書かれていた。しかし私が行ったときは、公開していなかった。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

相国寺は「五番町夕霧楼」の中でも「燈全寺」という名前で登場する。甚造が春物の帯の展示会を催したとき、燈全寺をその会場として借りたのだ。寺院がイベントの場所貸しをすることについて、甚造はこう話していた。

「…今出川の燈全寺が、うちの菩提寺の本山やさかい、ひとつ方丈の大広間を、うちの展示に貸してくれんかいうてたのみにいってきたんや。禅寺の本山で会場を貸さんとこはどこにもあらへん。ほしたらな、坊主はお前、腹へらして、闇米が欲しゅてかなわん時節や。大喜びで、ふたつ返事で貸してくれよった」
(「五番町夕霧楼」〔新潮文庫〕p.86)

1952年2月のことである。

この展示会で甚造は、手伝いに来ていた燈全寺派の寺院・鳳閣寺で修行中の正順を見つけることになる。

一方、相国寺派の寺院のひとつとして、金閣寺がある。水上は、金閣寺の法事にも頻繁に出ていたという。当時の彼の思いを反転して、「五番町夕霧楼」の正順に重ねて描いた部分はあったのだろうか。


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Kyoto, SONY α390 with MINOLTA AF 35mm F2 (2013. 4)

門の前から上立売通がまっすぐ前へ延びている。この小さな道を進めば、やがて千本通にぶつかり、ほどなくして五番町へ行くことができるはずである。

では、青年時代に五番町へ足を運んでいた水上もこの道を歩いていったのかというと、彼が実際に相国寺で修行していたのは10歳から13歳の頃までのことであり、おそらくここにいた頃は、五番町の存在は知らなかっただろう。少なくとも、詳しくは。

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[Tour] 夕子の歩いた道を辿る (0)

1304271bookはじめに

京都名物の和菓子・八ツ橋の「夕子」。

その名前は、水上勉の小説「五番町夕霧楼」の主人公、片桐夕子に由来する。

この小説は、丹後の小さな村で生まれ育った片桐夕子とその幼なじみである学生僧との悲恋を描いた物語だ。夕子は、家族を養うために1951年(昭和26年)19歳で村を離れ、京都市内にあった色町・五番町の遊廓「夕霧楼」で働き始める。そこで夕子は好色の資産家・竹末(たけまつ)甚造に気に入られ、彼は夕子を妾にしようと企む。しかし一方で彼女は、市内の寺で修行する同郷の青年僧、櫟田(くぬぎだ)正順を好いていた。夕子に会うために夕霧楼に足繁く通う正順を疎ましく思っていた甚造は、正順が住み込んでいた寺の住職に彼の廓通いを密告する。そのうち夕子は結核を患い、入院してしまう。夕子に会えなくなったことや日々の修行に対しての不満が鬱積した正順は、寺に放火し、逮捕後に留置所で自殺。事件を知った夕子も病院をひそかに抜け出して故郷に戻り、幼い頃に正順と遊んだ墓地で正順の後を追うように自殺してしまい、そこで話が終わる。

個人的に、私と、この小説には、縁が深い要素がいくつかある。

学生時代の一時期、五番町の界隈で、昔遊廓だった建物に住んでいたことがあった。当時、土産物屋でアルバイトをしていた。そこで売っていた八ツ橋の一つが「夕子」だった。ついでに、作者の水上勉は大学の先輩にあたる。もっとも年がかなり離れているので、これについては、私の小学校の後輩に木村カエラさんがいるということと同じくらい意味がないことかもしれない。

作品を読んだのは、社会人になってからだった。けれども、八ツ橋の包装紙に描かれた、ゆるキャラのような夕子と、生活の記憶に残る五番町の光景と、遊廓の生々しさが頭の中で噛み合わなかった。後追いで映画(佐久間良子さんと松坂慶子さんが各々主演で、二度映画化されている)もDVDで見たけれど、印象は今ひとつ変わらなかった。

作品の基になったのは、1950年に起きた金閣寺放火事件と、作者の学生時代の実体験といわれる。

ということは、題材の多くは現実にあったものか、或いはモデルとなったものが存在するのではないだろうか。

そんなことから思いついた今回の旅は、この小説に現れるいくつかの情景をトレースしていくものである。


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Kyoto, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

(注)原作を読んでいないと今回のネタにはついていけないと思いますので、悪しからずご了承ください。

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April 14, 2013

Cyber-shot DSC-RX100導入

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Ohsaka, SONY Cyber-shot DSC-W630 (2013. 3)

久しぶりの画像がいきなり「スパゲティナポリタン・ダブル目玉焼き乗せ味噌汁付き・極め付きは箸で食え」っつー一品なわけなのだが、何が言いたいかというと、こうした、日々の生活で遭遇したものの記録用カメラとして、この一年使ってきたのが、ソニーのCyber-shot DSC-W630だった。この機種、1万円そこそこ(昨春購入した時の価格)にしては35mm換算25~125mmズーム、光学式手ブレ補正など基本的なスペックは押さえられており、写りもツボにはめればそこそこ使えた。しかし大伸ばししたり凝った撮り方をしたりすると、しんどく思うことがあった。具体的に言えば広角域で画像の一部が流れたりとか高感度に弱かったりとか。おそらくコストの問題でレンズ設計や撮像素子の大きさに制限があるためなのだろう。んなわけで、旅行などでメインに使う一眼レフやミラーレスカメラのサブに充てるには、このカメラでは若干の力不足を感じていた。

そんな場合、昔は一眼レフを複数台持っていくとか大口径と小型のレンズをシチュエーションに応じて使い分けるとかして対処したものだけど、以前に比べりゃ体力は落ちているし、デジタルの場合は野外でレンズ交換するのはためらわれるしで、小型軽量高性能でサブ機になりそうなものが(あれば)欲しいという気になっていた。

ソニーのCyber-shot DSC-RX100は、昨年発売された大型の撮像素子を持ったカメラという程度の知識は持っていた。しかし一般的なコンパクトデジタルカメラの倍以上の価格で、型落ちのミラーレスカメラのレンズキットより高いということを考えると、よっぽど何かメリットがないと買うには躊躇する。

そんな中、先日、ある雑誌で「RX100はミラーレスカメラ・NEXの標準ズームレンズよりもよく写る」と書かれているのを目にした。それはNEXの標準ズームレンズの描写に不満があることを言いたかったのかもしれなかったけれど、NEXの標準ズームレンズの写りに大きな不満がない私にとっては、なかなかナイスなRX100に対するほめ言葉だった。もしRX100を手に入れて、それが標準ズーム付きNEXの代わりになれば、今あるNEXを本格的にマウントアダプター母艦機として、こだわりの単焦点レンズをつけて存分に使うことができる。そしてマウントアダプターをかまして使うレンズの場合、ボディのスペックの陳腐化はあまり問題にならないので、NEXの新製品が出ても気にせずにすむ。経済的な面でも意外によろしいのではなかろうか。

あとは価格の問題。発売以降時間が経っているにも関わらず、値段はあまり下がっていない。しかし先週、ある量販店で「ポイント込みで価格.comの最安値とほぼ同じ+カメラ何でも¥3,000下取り」の表示があるのを見つけた。そこで、普通に売っても¥3,000の値がつくかどうかわからないW630を下取りしてRX100を購入するに至ったのだった。


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第一印象。重い。公称240gだから極端に重いわけではないけれど、サイズが小さいために、重量感が気になってしまうのだろう。そんなわけで滑り止めの意味で貼り革も購入。というか、メーカー純正で最初からオプションで用意しておいたらどうなのだろうか。予め貼り革を何種類か準備しておけば、色違いボディを作る手間も省けるだろうに。

電源スイッチを入れるとレンズが繰り出す。ズームレンズというものは広角域ではそんなに伸びないけれど焦点距離が長くなるにつれて伸びていくもんだと思っていた。だが、このカメラのレンズは焦点距離に関係なく伸びる。そして望遠域でも長さはあまり変わらない。従って撮影中の外観は、常に、いかつい。

1304142sencersizeちなみにこのカメラの売り文句のひとつである1インチサイズの「大型撮像素子」というのはどれくらいの大きさなのか調べてみたのが、左の図である。比較するとたしかにコンパクトデジタルカメラの主流である1/1.7インチや1/2.3インチとは一線を画するけれど、一方で、一眼レフやミラーレスカメラでよく使われるAPS-Cやフォーサーズと比べると、明らかに一回り以上小さい。「大型」と威張るほどのもんでもないような気も。

(注)APS-Cサイズは機種によって大きさにバラつきがある。この図では、私が今使っているソニーのα390を例にしている。


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Tokyo, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)
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Shizuoka, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)
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Ohsaka, SONY Cyber-shot DSC-RX100 (2013. 4)

とりあえず近所歩き及び出張のお供としてテスト中。写りには定評のある機種なので、私の使い方に操作性がadjustすれば長いこと使えると、ふんでいる。

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